「こっちへお入り」平安寿子
2008年04月25日 (金) | 編集 |
たいら

こっちへお入り

親友の友美に駆り出され、落語教室の受講生たちが熱演するステージを見ることになった江利は、友美の落語があまりにも下手なのでついこう思ってしまった。英語と落語じゃ、一字違いの大違い。英語ができれば海外旅行もドンと来いだが、落語なんか覚えたところで何の役に立つ。しかし四十がらみの「桜家チェリー」さんや「やど家おかね」さんの落語を聞いてちょっと見直していると、最後の一人が出囃子にのって高座に上がった。

高座名は「桜家楽笑」。今日の演者たちの師匠、かたく言うなら、「女性のための生涯学習・落語講座・講師」である。いつのまにか彼のリズムに巻き込まれていたらしく、聞き手として、自然に拍手ができた。この人の落語なら、もっと聞きたいな。そう思った。

そして打ち上げ会場での一言が、江利を変えた。落語をひとつ覚えたら、癖になる。落語にはそういう魔力がある。魔力。わたしには関係のないもの。一生、出会えそうもないもの。落語を覚える。ただそれだけで、魔力に触れられるものなのか――。わたしにやれるのか。人を笑わせられるのか。オヤジギャグで人をうんざりさせるアホ上司とは大違いの、ちゃんとした笑いをとれるのか。吉田江利、三十三歳。独身OL。わたしは、秋風亭小よし。気づけば落語にどっぷり嵌まっていた。

まず章の冒頭で、落語のネタが紹介される。そこで主人公が引っかかる人物のこと、あるいは現実で引っかかった出来事が披露される。そして、あれやこれやと思い悩んだ末に、落語のお噺と現実の出来事が上手く重なって、やがて主人公が腑に落ちたり納得するという展開の作品だ。だから落語をまったく知らなくても、主人公が親切丁寧に落語の内容を教えてくれる。ここが気に入らないだとか、ああだこうだと、まるで落語エッセイのように書かれているのが読みやすかったり、面白かったりする。

そして初心者にありがちな描写がうまく書かれている。ひとつを暗記すると、それを掘り下げようとするのでなく、次を次をと覚えたくなってしまう。そのにわかファンぶりが滑稽で、熱中しすぎる主人公がかわいらしく思えてくる。そして誰かに落語の話をしたくなって、惰性で付き合っている恋人に熱くなって語るが、こいつが毎回、何故か水を差す。頭でっかちの評論にムッする。胸くそが悪くなる。だけど…、というのが、この作品のポイント高い部分なのだが。

そんな一方で、落語の世界を知り始めると、お人好しや、見栄っ張りや、粗忽者や、知ったかぶりの愚か者たちが、ああ、こんな人、いるな、これはあの人みたいと、次第に思い当っていく。それにカルチャースクールの面々で落語について語りあう場面が、すごくいきいきしていていい感じだった。講師の楽笑さん、奥さんのチェリーさん、おかねさん、晴晴さん、すみれさん、利休さん、グッチーさんと、みんなの落語好きが、気持ちいいぐらいこちらに伝わってくるのだ。

こういう落語ラブの作品を読むと、すぐに影響されてしまい、落語を聞きたくなってしまう。そんなだから、人間って単純な生き物だな、とつくづく思ってしまった。すごくおもしろかった作品だ。