「九つの、物語」橋本紡
2008年04月27日 (日) | 編集 |
九つの、物語九つの、物語
(2008/03)
橋本 紡

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泉鏡花の「縷紅新草」を読んでいたら、お兄ちゃんが部屋に入ってきた。「あのさ、ゆきな、前から言ってるだろう。俺の部屋に入るなよ」 そこはわたしの部屋ではなく、お兄ちゃんの部屋だった。お兄ちゃんは周囲が呆れるぐらいの読書家で、実にたくさんの本を読んでいた。この六畳の狭い部屋は、ちょっとした図書館のようなものだ。顔立ちが整っていて、喋るのがうまくて、服の趣味がいいお兄ちゃんは、やたらと女の子に人気がある。年はふたつしか違わないのに、わたしとお兄ちゃんはまったく似ていなかった。わたしはどちらかというとひとりでいるのが好きで、顔の造りだって地味だ。

久しぶりにお兄ちゃんの特製パスタを食べたあとで、ふたりはリビングで一緒に過ごす。ここでやっと、第一話の最後になって、妹のゆきなからあることが告げられる。「お兄ちゃんは二年前に死んだはずだよ」と。大学生のゆきなは、両親が海外へ行ってしまってから、古くて広い家にひとり住んでいた。そこに幽霊のお兄ちゃんがふらっと現れて、毎朝毎晩、美味しい料理を作ってくれ、兄妹だけどいるはずのない兄との、ふたりの生活がはじまる。

この作品はタイトルが示す通り、九つの物語だ。第一話「縷紅新草」は泉鏡花、第二話「待つ」は太宰治、第三話「蒲団」は田山花袋、第四話「あぢさゐ」は永井荷風、第五話「ノラや」は内田百聞、第六話「山椒魚(改変前)」第七話「山椒魚(改変後)」は井伏鱒二、第八話「わかれ道」は樋口一葉、第九話「コネティカットのひょこひょこおじさん」はサリンジャー。これらの作品をゆきなはお兄ちゃんの本棚から拝借して、家や駅や大学で読み耽る。彼女もまた、作中の人物と同じように、現実や社会生活の中でいろいろな思いを抱えている。そして小説を読むことで、自分の気持ちと登場人物を重ねたり、ふっと直感した瞬間、それらの悩みがしだいに解消してゆく。

近代文学を作品に絡めると重くなりがちだが、やたらと女の子にモテて、一見ちゃらちゃらしているのに、いつも明るくタフで、ひょうひょうとしたおにいちゃんが絡むことで、楽しくて呑気な作品になっている。しかし、そんな生活がずっと続くわけにもいかない。ゆきなは些細なことで恋人と喧嘩をするし、ずっとひきずっているお母さんへのわだかまりや、記憶から消えていたお兄ちゃんの死んだ経緯などが明らかにされ、信じるべきはなんなのかがわからなくなり、そしてすべてが怖くなって、見えない重圧に押し潰されそうになる。

そこで、お兄ちゃんが幽霊になってゆきなの前に現れた理由が生きてくるのだが、この辺は予定調和かなと思いつつも、妹を大事に想う兄の姿にはぐっとくるものがあった。うちの妹に対しても、兄としてこんな想いがあるのだろうか。たぶん普段は眠っているが、本質的にはあるのだろう。そういうこっ恥ずかしいことを思いつつ、ぱたんと本を閉じて余韻を噛み締めた。