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    2009

12.08

「寂しい写楽」宇江佐真理

寂しい写楽寂しい写楽
(2009/06/26)
宇江佐 真理

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伝蔵(山東京伝)の洒落本の三冊が寛政の御改革に触れ、伝蔵は手鎖五十日、板元の耕書堂蔦屋は身代半減、闕所の沙汰を受けた。一世を風靡した草双紙、美人画、狂歌集が蔦屋から出たことなど、今では夢のように思われた。朋誠堂喜三二、恋川春町、大田南畝、喜多川歌麿など、名のある戯作者や絵師は蔦屋の元から去って行った。幕府の倹約令に触れないものは、もはや役者絵ぐらいのもの。大首絵をやる。そればかりではない。雲母摺りの技も使うのだ。大首絵も雲母摺りも袂を分けた歌麿が考案したものだった。

絵師に選ばれたのが、東洲斎写楽。本業は能役者で、斉藤十郎兵衛という男だった。ひと月足らずの間に、大首絵の雲母摺りで三十枚の役者絵を出す。幾ら速筆の絵師でも、その数は無理。そこで助っ人に借り出されたのが、山東京伝の伝蔵、鉄蔵(後の葛飾北斎)、幾五郎(後の十返舎一九)だった。世間はもう蔦屋は終わりだと見限っているかも知れない。蔦重健在なりと江戸の人々に知らせたい。もうひと花咲かせ、元の店の間口を取り戻すまでは。懸案の役者絵は蔦屋重三郎の賭けであり、祈りでもあった。

写楽の正体を問う作品ではないので書くが、東洲斎写楽とは、あまりに真に迫った大判雲母摺りの第一期から、第二期、第三期、第四期と出版数は増えるものの、描けば描くほど絵が下手になっていくのは何故か、約十ヶ月という短期間に活動をやめてしまったのは何故か、蔦屋が無名の新人の浮世絵を多く出版したのは何故か、などといった点が写楽探しの謎を生み、別人説の候補として多くの浮世絵師の名が挙げられた。しかし近年の研究によって阿波の能役者・斎藤十郎兵衛説が有力とされている。

そうした流れがある中、本書は能役者の斎藤十郎兵衛を写楽としつつ、別人説の候補として名が挙がった戯作者の山東京伝、浮世絵師の葛飾北斎、滑稽本の十返舎一九を影武者とする蔦屋重三郎による工房説を取り入れている。そして「寂しい写楽」というタイトルが現すように、身上半減の憂き目を見た蔦屋重三郎、女房を亡くした山東京伝、勝川派を破門された若き日の葛飾北斎、上方から流れてきたばかりの十返舎一九と、寂しい境遇にいる人物を配している。そして写楽もまた、寂しい男として描かれている。

写楽絵も当時は売れずに寂しかった。そして日本が開国されて外国人が行き来するようになった時、浮世絵は日本土産の包み紙として用いられていた。そのSharakuを見たドイツの美術研究家クルトが、レンブラント、ベラスケスと並ぶ世界三大肖像画家と激賞したことがきっかけで、写楽は日本で初めて評価を受けるに至った。海外で評価されたから、これはすごいものらしいってのも寂しい。気づいた時には多量の浮世絵が海外に散逸していたのも寂しい限りだ。思えば、寂しい、寂しい、寂しい写楽であった。

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