--

--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
ポチッとお願いします。その一つが励みになります。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

スポンサー広告
トラックバック(-)  コメント(-) 

    2010

07.15

「ぼくらのひみつ」藤谷治

ぼくらのひみつ (想像力の文学)ぼくらのひみつ (想像力の文学)
(2010/05/07)
藤谷治

商品詳細を見る

ぼくは二〇〇一年十月十二日金曜日午前十一時三十一分に生きている。寝て目が覚めると、午前十一時三十一分。町を歩いて、午前十一時三十一分。彷徨い疲れて、午前十一時三十一分。部屋に帰ると、午前十一時三十一分。文章を書いても、午前十一時三十一分。何をやっても、午前十一時三十一分。眠くなってきて、午前十一時三十一分。いつも昼間なんだ。いつまで経っても。時間が止まってから、もう何年も経った気がする。やんなっちゃうな、もう。

ぼくの住んでいる午前十一時三十一分は、古いSFなんかに出てくる「時間の止まった町」みたいなストップモーションじゃない。みんな普通に歩いている。ぼくも歩いている。クルマも走っているし、どんな店もたいてい開いている。ただひとつ、かなりはっきりしていること。それは、歩き回っている人たちは、ぼくと同じようにいつまでも同じ時間の中で生きているわけじゃないことだ。

ぼくは午前十一時三十一分に生きているだけじゃなくて、わけの判らない麻袋を担がされている。とにかくいつも、背中に麻袋があるんだ。汚い、湿っぽい、だいたい四十センチ四方くらいの麻袋が。そんなとき、毎日かならずセックスをする京野今日子と出逢った。なんでか知らないが、麻袋がもぞもぞしやがったんだ。だからぼくは声をかけることにした。そのせいで彼女も十一時三十一分にとどまることになってしまった。

作品の本筋はこれだけだ。わかりやすいと言えばわかりやすい。だが、これがとても難解な代物になっている。「いつか棺桶はやってくる」以降に見られる新境地の分類に入る作品だからだ。筋を外れることしばしで、その寄り道によって章立てられている。そして、どこか哲学的だ。読者は、主人公の思考に振り回されることになる。気がつけば、迷宮の中にいる。午前十一時三十一分という一分の世界に。理解するだとか、明快な回答を得るだとか、そういうたぐいの作品ではない。あるのは、想像力だけ。そんな不思議な物語。

ポチッとお願いします。その一つが励みになります。 にほんブログ村 本ブログ 読書日記へ

藤谷治
トラックバック(0)  コメント(0) 

Next |  Back

comments

コメントの投稿











 管理者にだけ表示を許可
trackback
この記事のトラックバックURL

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。